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本当の自分とつながること、自分のために生きること、 生きづらさとスキーマ療法①

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自分の感覚を信じる

私は宗教3世でした。今は宗教とは決別していますが、宗教の教えで、この世に悪い人間なんか居ない、どんな人とも努力すれば分かり合える‥そう教えられて来た故に、どんな人との関係も自分が努力して歩みよればうまくやっていくことができる‥信じていました、 どんな人にも良心があり、だから分かり合えれば必ずうまくいく、きっと何か事情があるに違いない… 私が変われば、あの人も変わるかもしれない… 苦しんでいました、これまで信仰していた宗教の教えに矛盾を感じ、無理が来て、いよいよどうにかしないといけなくなり、自分と向き合わざるを得なくなりました。心の病になりやすい人は真面目で一生懸命で心優しい人だといわれています。人生を楽しむこと、自分を優先すること‥辛い、苦しい、しんどい‥ということさえ、見せてはいけない、出してはいけないと思っています。

実際の世界は悪い人間ばかりでないですが、いい人ばかりでもありませんでした。いい人の仮面をかぶって、自分の欲求や感情を治めるために人を攻撃したり人のせいにしたりする人もいました。人間というものを考えてしまいます。一体誰が安全な人なのか、わからなくなりました。この世の中は噓に彩られていて、何を信じていいのか、何を拠り所にして生きていけばいいのかさえもわからなくなりました。周囲の環境から、いつしか自分の感覚を封印し、本来の自分の感覚は何なのかさえ、わからなくなっていました。

自分の感覚が封印させられると、人の影響で入ってしまった感覚が自分の感覚と錯覚します。自分の感覚を信じれないと、自分の選択に自信が持てなくなり、どうすれば正解なのかと悩むようになります。でも本来正解というものはなく、全ての感覚、全ての選択に間違いはないのではないでしょうか。

私が悩んだり何かに執着させられる時は、他人の感覚や感情が入って来て、それに振り回されている時でした。なぜ人に振り回されるのか考えると、それはその人から何かを得られるとの期待があったり、その人からジャッジされる恐怖、それによって排斥される恐怖というものも背後にありました。でもその人は本当に何かを与えてくれるのだろうか。本当の自分は一体何を求めているのかと考えるようになりました。今は情報過多になりすぎて、どれが自分の感覚なのか、本当の自分は何を望んでいるのか、わかりにくくなっているように感じます。結局1人の人間が頭で考えることなんて、狭い主観の範囲内でしかないのですが。

今は、どんな人とも分かり合える、わけではない。理解できなくてもいいのではないかと思っています。人それぞれ感じ方、考え方は違うのだから。価値基準が違えば、良い悪いと判断できるものでもない。無理に合わせるより、違いを受け入れられたらいいなとは思もっています。


本当の自分とつながること 自分のために生きること

自分を殺して、自分の感情や感覚を封印して周囲に合わせて生きてきて、嫌われないように不快な思いをさせないようにと一見は適応的で生き易いですが、本当にそれでいいのか、それは何か違う、違和感を感じる…本当の自分の求めていることは本当の自分とつながること、私が求めていたのは自由への渇望、本当の気持ちの解放でした。 

生き延びるためにしてきた行為と、本当の自分が望む感覚は異なります。この真実に気づくことで生きやすさにながりました。これが自分なんだと腑に落ちてつながれる瞬間、自分の感覚で生きれること、これが何より大切だと感じます。自分の価値が人からの反応に帰結してしまうと、他者から良い反応を得るために生きてしまい、そこに自分は居ないから苦しくなります。自分の感覚がわからなくなってしまうこと、自分の感覚で生きれなくなってしまうことは生きづらさにつながると私は思います。

人の評価、人の顔色、勝ち組、負け組、成功、失敗…誰が決めているのかわからない、これらに翻弄されるからしんどくなります。人が雑談しているだけで自分のことを言っているのでは‥と疑心暗鬼になったり、変な人と思われたり噂されて排除されるのではと恐怖に陥ったり。人の欲望や悪意は恐怖の対象になります。それに呑み込まれるあまり、それ以外のものが見えなくなります。「間違ったら酷い目に遭うから間違わないようにといつも周囲を伺ってビクビクして、いつもその場に相応しい行動をしようとして何が正解か探し続けます。

親や先祖に感謝を、周囲の人間や物に感謝を…何かとそう言われてきましたが、それは誰のためなのか‥人間は、無限の生命、無限の知恵、無限の愛、その他すべての善徳に満ち満ちた久遠不滅の存在であり、これが人間の実相であり、人間の原罪を否定し、罪の存在を否定します。人間皆神の子であり、悪い人間はいない、神の子は皆分かり合える‥そう教えられてきました。

でも、どうやったって分かり合えない人というのはいます。人はそれぞれ生きる目的は違うのだから、わからない、とすることは大事です。わからない、と手放せたら、好かれようと努力する必要もなくなります。この人に好かれることが全て、となっている時、そこには何らかの支配関係、依存関係が存在しています。この人に好かれるために無理をして頑張ってしまっているなら、知らず知らず、その人が“神”になってしまっています。どう頑張ったって、好かれることが難しい人というのはいます。好かれる=この人の気に入るような動きということになるが、それを意識している段階で、もう自分自身ではなくなっています。しかしついそのように、“この人に好かれることが全て”と周りや自分自身が見えなくなってしまうことの前段階には、恐怖が存在します。それはこの人から与えられた恐怖です。

否定される、なじられる、排斥される、いじめられる、責められる、etc・・・もうあんな恐怖を味わいたくはない…!、と、気づけば、心は奴隷状態に。この人は何のために生きているのか… 自分自身はどのように生きたいのか…そう考えてみて、どうしても相容れないならば、一緒に生きることはできません。自分のためではなく、他者のために頑張り過ぎたことによって、バランスが取れなくなってしまうこともあります。自分のためだけに頑張って生きれたら、本当の自分が望んでいることのままに生きれていたら、きっと苦しむことはないのでしょう。勿論、人は独りでは生きれないので、誰かのために頑張ることが自分の望みということもありますが、誰かの欲求を満たすことのみに重点が置かれて、自分の思いや望みがないがしろにされていたら、自分自身が粗末にされていることになるので、それは苦しいはずです。

他者がどんな態度を取ろうが自分の価値は変わらないはずです。本来、誰かを満足させる必要などなく、全ての人は、自分を満足させる責任は自分自身にあります。人の満足の責任まで負う必要はなく、他人の機嫌や感情の責任も負う必要はありません。「お前が怒らせた」と言われても、「いや、あなたが怒ることを選んだだけです」。人それぞれ生きる目的は異なります。自分の存在意義や価値を他者の態度や扱いで評価してしまう、ということをやってしまう場合があります。人間も含めて、全ての生物の価値は変わらないはずなのに、人は他者からの扱いで自分の価値を感じてしまいます。他者が軽く扱ってきたから、自分には価値がないと思ってしまい、他者の存在によって、自分というものを認識してしまう。大切にされているから価値がある、軽んじられるのは、自分に原因があるからだ、と人は錯覚しがちです。

周囲との関係の中で周囲の要望や気分を優先してきた場合、非常に有能な“センサー”が備わってしまいます。他者のネガティブな反応を瞬時に察知する。それだけではなく、その原因を常に自分の中に探してしまう。人であれ、現象であれ、目の前のあいまいな出来事を自分と結びつけないことは重要です。思ったまま、感じたままに行動して、その結果起こったことは必然で自分のせいではない、全てが自分のせいで起こっているということはありえない。自分とは関係ないと切り捨てる。起こることに理由を求めることを止める。ああ、そうなんだね程度で通り過ぎる、置いていく。ゆだねても大丈夫と思えたらどれほど生きやすくなるか。


自分の感覚で生きる

人それぞれ感じ方、見え方は異なります。親子や兄弟であってもそれは全く異なるから、同じものを見ても、どう感じるか、受け取り方も異なれば、表現の仕方も違います。感じたままが受け入れられ、感じたままに表現し行動することが許されることは、その人の存在意義に関わる重要なことだと感じますなぜ多くの人と同じでないといけないのでしょうか。なぜ周囲と違うことがよしとされないのでしょうか

本当は皆、違う感覚を持っているはずなのに、なぜ皆が“同じ”なのでしょう

馬鹿にされようが、笑われようが、皆と違うことが逆に個性であると尊重される世界であってほしい。

それが叶わなくても、別に自分は皆と違っていてもいい、そんな自分が好き、それが自分らしさであると肯定できること、そんな個々の美しさを感じていきたいです。

今自分は本当にその行動をしたいのか、それを本当にする必要があるのか‥やはり最終的には自分のために自分の意思で自分の喜びのために生きれるようになることが必要です人気があるから、注目されているから、流行っているから…ということはさておいて、そういうこととは関係なしに、意味もなく自分が惹かれるもの、いいなと思うものを大事にすればそうすると自分に軸が戻ります。もう誰かのために生きる必要はなく、自分のためにだけ生きる、それが本当の自由ではないでしょうか相手がどのような意図を持っているにせよ、自分の中の“ここまでは譲歩できるが、これ以上は無理”という感覚を大切していく。他者はどうあれ本当の自分はどうしたいのか、何を求めているのかという、自分に軸を戻す作業が必要です。相手がどんな反応をしようが、その責任はその人にあります。いい人であり続ける必要はないし、それは人間である限り不可能です。どんな人にも醜い欲望や感情はあり、不完全であるから人間なのです不完全な人間であることを自分に許すのは大事です。

何より大切なのは自分の感覚です。そこに軸を戻して常に生きること。人の気持ちはその人じゃないとわからない。「人の気持ちを汲み取れない自分はダメなんじゃ…」というのは、明らかに人から入れられた影響です。汲み取る必要などないし、その責任もない。自分の感情の始末は自分でつけねばならない。色んな思惑や欲望が交錯する中でも、ブレないで軸を自分に戻す作業は、常に自分に集中して、あらゆる影響を排除した上で、自分の心の声に耳を傾けるという地道な心の筋トレが必要です。

 「今、どうしたいですか?」「今、何を感じてますか?」人は何かと未来の不安と過去の傷に囚われがちですが、考えてみれば、今、この瞬間に何をするか‥、その積み重ねが未来へとつながっています。今、この瞬間の自分の心のままに選択して生きていけばよいのではないでしょうか

生きづらさなどは望まずして人生に起こった出来事ですが、それにより得たものによって、最良の幸せを得ることもできるのではと感じています。運命は過酷ですが、それを享受して生かしきった先に、見えるものがあると信じています。信頼のできる人との絆や、理解してもらえる体験。そして美味しい食事、美しい景色や自然に触れること。五感から感じる全てから、肉体的な喜びを感じれること心地良さを実感できることが大切です。

この世は不条理で溢れている

心からの共感や理解を本来人は求めていますが、どうしたってわかり合えない人、話が通じない相手というのはいます。話す前から持って行きたい結論と方向性、目的は最初から決まっていて、誰かの意見を聞いてそれを変えようとは思っていません。変える時は、それが自分の目的により沿っている時だけです。こちらのことをまるで信じていない相手、あるいはこちらに関心がない相手もそうです。ここで信じてもらえないのは自分に問題があるから、と頑張ってしまうとドツボにハマってしまいます。まずは双方向のコミュニケーションができているかを確認する必要があります。解決できないから、どうにか解決しようと取り組みますが、結局、どうにもできないこともあります。問題を何とかしようとするのではなく、問題との関係性を手離すほうがいいこともあります。そうすれば、その先の辛い症状や生き辛さを回避できるかもしれません。分かり合えたらラッキーくらいの気持ちで、そういう前提でいた方が楽なこともあります。気を取り直して、わかってくれる人や場所を探していく。

人は意外と狭い世界で生きているように感じます。対等な立ち位置でない、こちらに対するリスペクトが感じられない、なぜか話していると自信がなくなる、自分がおかしいように感じさせられる、なぜか話が通じない、伝わらない、合理的でない関わりをされる、思い当たるふしがある場合は、あまり深追いしない方がいいのではと感じます。心にも思っていないようなことを言ったり、権力のある人に媚びてみたり、誰かの評価、権力のある人の言ったこと、大勢が言ったこと、一面的な評価だけで決めつけて見下してくるような人も居ます。自分が実際に見て感じたことが一番のはずなのに、人の噂だけを信じている。

人は今いる自分の世界、あるいは自分の生きて来た世界だけが全てのように錯覚してしまいます。それを全てと錯覚して生きてしまうと、その後、苦悩や生き辛さに出会うことがあります。ある場所で言われた評価、目線だけが全てではありません。たまたま居た世界、出会った人がそうだったというだけではないでしょうか。どんなに賢い人だって、所詮 は人間であり、この世に“特別な人”などいないと私は考えます。皆、個を持ったただの生物です。特別な存在になったら、特別な力を授かって不安はなくなる、等ということはありません。生きている限り、先のことなどわからないし、生物としての欲望が消えるわけではありません。曖昧さに耐えつつ、不安と共にこの先も生きていく、それでも人生は続ついていきます。本当に自分が心地いいと感じること、場所はきっとあります。人から言われることに翻弄されないでください。思った以上に世界は広いです。

心のつながりと一体感

人が求めているのは、同じ目線で物事を見て理解して気持ちを共感、共有してもらえること、そうだよね…とわかってもらえることではないでしょうか。…気持ちを共有してもらえなければ人は満たされません。同じものを見て楽しんだり、同じものを食べて美味しいと言ったり…それは悔しいね、それは大変だよね、それはしんどいね…とか。実はそんなシンプルなことではないでしょうか。それがどういうものかわからないから、わかり易い評価や対価を求める。自分が求めるのは本当はそんなものではないとわかってはいるのに…。

それが出来ないから困っているんだよと思うのですが、大切なのは、同じ目線で気持ちを共有できると人とつながること、どんな自分も受け入れて認めていくこと、自分のために生きること、色んな道があると思いますが、それが生きづらさからのひとつの抜け道だと感じます。

豊かになって、お金が沢山あっても、身の回りの世話を沢山してもらって、物を買い与えられて、物さえ揃っていさえすれば幸せという人もいるかもしれまん。お金や物も大切なんですが、私にとって生きていくうえで大切なものは人とのつながりや一体感だと思うようになりました。

誰かにとっての“特別”になることや世の中の価値観に合わせて生きていく必要なく、同じ目線、同じ立ち位置で不安になったとしても、良い悪いではなく「そんなあなたでいいんだよ…」、「そりゃ、そうだよね…」「そうなんだね…」と気持ちを共有、共感してくれる体験、個々の感覚を尊重され、受け入れてもらえることが大切だと感じます。自分の哀しみや苦しみを知ることも時には必要でしょう。 一緒に苦しみや哀しみを共有することや、お互いの哀しみを理解して、いたわり合うこと が大切だと感じます。心に傷をおってしまわれた人 たちの心を互いに癒やせることが少しでもできたら…。

生きづらさとスキーマ療法

スキーマ療法は自身が自分の感覚を取り戻すまでの作業であり、人の感覚や価値観、評価から自由になって、自分を信頼できるようになる作業だと感じます。自分の感覚のままに生きれて初めて自由と感じられます。自分の感覚に戻る、自分の感覚を信じる、自分を信じる過程。本当の自分らしさ、ありのままに生きれること、そう生きれる場所を見つけること、自身がそれに気づき、どのようにすればそれが実現できるのかを見つけていく過程が大切です。スキーマ療法の中で、自分の感情や感覚を最も大事に、自分の思った通りに人生を歩いていいこと、それを望んでいればそうしていいことを確認していきます。そして、他者基準でなく、自分基準で自分の満足、喜びを優先し、それを誰にも遠慮することなく表現できるようになる、それが何かを模索していきます。最終的には誰のためでもなく、自分のために生きる、自分が楽しいか、心地良いか…与えられた自分の能力と身体を慈しみ、それを大切に使います。

怒ってはいけない、拒否してはいけない、反論してはいけない、疑ってはいけない…これら強い禁止が、逆に自分自身を苦しめます。怒りを封じ込めると、その怒りは自分に向いて自分を責めるようになったり、他者に向いて他者を責めるようになります。スキーマ療法では過去にされた理不尽な体験について、その当時は表現できなかった感情を認めて言語化します。理不尽な体験を負わされた相手に対して、「どうしてやりたいか」とセラピストが問う時があります。激高して罵倒してもいいし、毅然と反論してもいいし、伝えられなかった気持ちを伝えてもいい。相手が謝ってくれればいいですが、多くはそうではないです。その相手に対して「どうしたいか」復讐してもいいし、修業の旅に出してもいいし、罰を与えて苦しめてやってもいい。するとこれまで些細なことでイライラし動揺していたのがなくなり、穏やかに過ごせるようになることがあります。自分の感情を肯定できて初めて前に進めます。

もし、何をしても何を言っても、一切ジャッジされない世界だとしたら、誰からも何も非難されないのだとしたら、一体自分は何がしたいんだろうか、どうしたいだろうか…と自分に問うてみて 、自分はどうしているか、どんなことをしたいか、そんな自由な世界で嬉々として何の心配もなく生きている自分をイメージしてください。こんなことしたら、きっとこんな風に思われるだろうな、言われるだろうな…そういうものを一切取り除いて、誰からも何も言われないのだとしたら、自分はどうしたいのか…

自分がそんな世界の住人なのだとしたら…これがしたい”と自然に出て来たことが、きっとあなたのしたいことなんだと思います。そこで生き生きとしていたら、それが本来の自分の姿です。そんな本来の自分との絆を深められたら、生きづらさも少なくなってきます。人生というのは選択の連続ですが、毎日、その瞬間瞬間をいかに生きるかが、日々を人生を作っていくことになります。どんな自分であっても何をしていても、誰からもジャッジされず、何も言われず何も関知されない、人はもっと自由になれます。

頭ではわかっているが、できないということがあります。やろうとするけど何かがそれを阻むという時。大抵はこれまで生きてきた過程で影響を及ぼしてきた早期不適応スキーマがあって、その影響をサバイブするために身についたスキーマが、今も起動していて邪魔をしています。

そこから抜け出すには、これまでそうやって自分を守ってきてくれた過去の自分を労い受け入れた上で、これまで自分がサバイブの過程で身に付いたスキーマの中で生かせるもの、多少修正した方がいいもの、修正するのなら、どのように変えていくのか、そこから発展させた新らしいスキーマを自分の中で更新していく必要があります。人生には様々な岐路があり、これまでの生き方では無理が出て、どうにも前へ進めない時が出てきたりします。それが再生のチャンスです。

社会や人からどう自分を守り、主体的に生きていくのか。他者から侵略されないために、自分のスキーマは自分で堅持していく必要があります。うっかりしていると、いつ踏み込まれるかもしれないから、安全な人かどうか慎重に見極めながら生きる必要があります。安全でない人を見極められて、人から悪意を受けない方法、自分を守る方法を会得できたら、無駄に恐れる必要はなくなります。自由というのは勝ち取った後が、本当の闘いです。自分を守るのは自分しかいない。自由にしたくても、周囲がそれを許さなければ自由はない。自由というのは「違いを認めてもらえること、違いをジャッジされないこと、違いを尊重してもらえること」ではないかと思います。そう考えると、自由はただじっとしているだけで、何もしないで享受されるものではありません。違いを尊重してくれる世界を探して行くか、認めてもらうために闘うか、認めてくれないならばスルーして開き直ることも必要です。

参考ページ
沖縄 心理カウンセリング~潜在意識紀行|心理カウンセリング波詩、加藤詩子様のHPを参考に作成しています。