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この世は“噓つき”で溢れている。だが、騙されてはいけない。自分の人生を生きるために

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本来の自分と周囲が求めている自分との間の乖離に苦しんでいる方が多くいます。求めてられている自分像の方に偏り過ぎて、本来の自分自体がわからなくなっている場合が多いです。精神的にしんどくなる時、意欲が出ない、無気力だと訴えがあり、それが自分の中の問題と思っていますが、その人のせいというより、人の言うことに振り回されたり、人からの影響で自分を責めたりしていて、自分を見失って、自分の人生を生きれていないことが原因のことがあります。

嫌われたくない、誰にも不快な思いや嫌な思いをさせたくないと思って無理する場合もあれば、親や家族から求められてきた使い慣れた役割をいつまでも大事に持ち続けてしまう場合もあります。役割を演じている限り、自由ではありません。役割の域を出ることはできないから苦しいのです。そうしているうちに、自分がどうしたいということは完全に封印してしまい、思うように生きれなくなったり、受け入れられたいが故に、つい自分の気持ちを押し殺して周囲の欲求を優先して、他人の顔色を見るようになってしまいます。また本人の気質もあります。自分の特性を理解していないせいで、なぜ自分は周囲と同じようにできないのかと苦しみ、無駄に自己肯定感を下げてしまっている場合もあります。

周囲の都合の中で責められたり振り回されたりしながらも、人の顔色を読んで過剰に周囲の反応を恐れて愛想良くし、下手に出たり過剰に適応し、それで自分を守れた人も居れば、完全にシャッターを下ろして自分の世界に逃げ込んで自分を閉じて守って来た、あるいは人と極度に距離を置いて関わらないようにしてきた人もいます。いずれも、自分がどうしたいかよりも、どうすれば人から攻撃されないで済むかという安全確保行動が優先されます。

自分ではない親のため、職場の誰かのため、周囲の目のために頑張って生きていますが、周囲の要求は人の数だけあり、何が正解なのかわからなくなり、ひいては自分がどうしたいのかもわからなくなっています。人の評価に敏感になり、正解を必死に探してしまいます。結局、全ての人の要求に沿うことは不可能で、できるだけ多くの人を幸せにするということ自体、無理があります。誰からも好かれ、誰も不快にさせないこと自体難しいです。

特定の狭い世界観、集団の中で(多くは家庭が最初の世界)特定の価値観や評価基準を一定期間刷り込まれると、どんな人でもそれが全てと錯覚します。人が日々生活している世界というのは狭いものです。家族、職場、友人関係…特定のコミュニティの中に居ると、そこに固有の価値観や評価基準があり、そこで生活しているとそれが全てのごとく錯覚してしまいます。でもその評価基準も、誰かの都合のためだとしたら…これまで一方的に自分がいたらないからだと思っていたけど、それはそのコミュニティの中にいる人の都合に合わないだけ。人は知らず知らず、自分の目の前の狭い世界のことが全てのように思ってしまい、そこに居る人の価値観に沿えないと、そんな自分が悪いんだ…と思い込んでしまいます。

自分の言動や振る舞いが、周囲にどう受け取られるかが気になって仕方がなく、今の自分の言動は正解なの?…と常に不安で、それを周囲の人に求めてしまうので、疲れ果てます。相手の意図や意思、考えがよくわからないというシチュエーションが不安で仕方ない。話が的を得ない人とか、気分がコロコロ変わる人は苦手です。相手の表情や態度が気になって仕方ないから、少しでも素っ気なかったり、表情が曇っていたら、「自分のせいではないか…」と気になります。相手が笑顔だったり機嫌が良くないと安心できず、少しでも気になる態度があると、人との交流そのものが苦痛になります。

この世は“噓つき”で溢れている。どんな人とでも努力すれば分かり合える、できないのは歩み寄ろうとしていないから…そのネガティブ思考を止めなさい、考え方を改めたらポジティブになれるよ…もっと人に感謝して、人からされた嫌なことより、してもらったことに感謝しなさい、“普通はこうだよね…”、こうあるべき…とかもそうでしょう。そこにハマらないとおかしい呼ばわりをする。だが、騙されてはいけない。

この世で起こること、人の感情や心の動きはいつもそんな風にメカニズムがあったり説明のつくものではないです。理不尽なことをされたら、それに対して怒ったり嫌だったと言っていいです。

別に“噓つき”が悪いと言っているわけでありません。本音は何なんだろう…と探る必要もないし、言われたことをまるまま受け取らなくてもよくて、“そうなのね”…程度で一旦置いておいて、で、自分自身はどうしたいのか、どう感じるのか…そこに気づくことが大事です。

いい、悪い、正しい、間違っている変に思われている、きっと嫌われている…このサイクルから抜け出すには、「人の本心はわからないし、知る必要もない」「どんな本心であっても、私には関係ない、私のせいではない」と自分と切り離すことが必要です。人の言動について、自分と関連付けない。分析、反芻をやめること。ポイントは人の機嫌や感情の責任まで取ろうとしないこと。誰かが不機嫌になろうが、そんなこと知ったこっちゃない位のスタンスで、相手が不機嫌になったとしても、あくまでそのリカバリーは本人にゆだねる。人の感情の始末は、その人にしかつけられず、自分でリカバリーすべき問題です。


自分はどんな人のどんな都合によってどんな立場で居ることを求められていたのか、それによってどんな役どころを演じさせられていたのか。色々な場所と環境の中で色々な人達と会って、色々なことを言われ求められて来て、そこでどうにか生きていくために素直に要請に従って来た、嫌われないために無理して自分自身を修正してきたが、それ自体も本来の自分から乖離している。今自分が生き辛さを感じているのは、その役割と本来の自分が求めることとの間に乖離が生じていること、そこで生き延びるために、愛されるために身に付いてしまったものに気づくことが必要です。

人からどう思われるか、目の前の人にどう受け取られるか、に心を砕いてきた…愛されるためには、何か特別なことをして、特別な何かにならないといけない…認めてもらう、受け入れてもらえる体験が不足していた場合、そうなりやすいです。問題の切り分けを行い、何が自身を苦しめていたのかを紐解き、違う世界観、価値観の中で馴染めず違和感を感じていたから生きづらかったんだと気づくことで前に進めます。

また傷つけられるかもしれないという予期不安と恐怖というのは中々消えません。似た状況を彷彿させられるとフラッシュバックは起こるし、同時に芋づる式に共通項を持つ傷つき体験が想起されたり。この恐怖と不安に対する対処は個々の方々によっても異なります。不安と恐怖から苦手意識が先行し、実際以上に捉えていることもあります。やはり場数を踏んで場慣れし、体験としての受け入れてもらえること、安心感を重ねていくことも必要です。自分の感情を正当に表現できて、そんな自分を受け入れることができ、それを表現しても否定されないという体験を通して、自分のために歩いて行けるます。

回復には自分の感覚を十分に感じて信じて生きれるようになることが大切です。そしてその先に様々な事を経験し、そこからどうやって自由を得て、その先をどう生きていくのか、生きることの意味を見つけ、不完全な自分でいい、どんな自分でも大丈夫…自分の感覚を感じて、そのままに生きていく。人生には様々な岐路があり、これまでの生き方では無理が出て、どうにも前へ進めない時が出てきたりします。それが再生のチャンスです。

参考ページ
沖縄 心理カウンセリング~潜在意識紀行|心理カウンセリング波詩、加藤詩子様のHPを参考に作成しています。