お知らせ

底にある激しい怒りはマグマのようになってその人を苦しめる  

ブログ

一般的にトラウマというのは、自分ではどうしようもできない出来事によって引き起こされる体験です。災害や戦争、事故等がそうです。自分でコントロールしようにもできません。一方で人的トラウマは、人によって支配、コントロールされる理不尽な体験によって起こります。自分の周りで起こる物事を、自分だからそのようなことが起こるんだ‥と自分が引き起こしているように考えてしまう場合があります。度重なるトラウマを経験していたり、毒親の問題を抱えている人に多い傾向です。幸せになってはいけない、いいことがあっても、それを心底楽しめず、きっとこの後に悪いことが起こるに違いないと思ったり。

どうせ、誰もわかってくれない…、私はこれから先も誰ともうまくやっていけない、そんな風にあらゆる物事を自分に引きつけてしまう考えがあると、とても苦しく生きづらいのではないでしょうか。与えられた環境の中いで、その人がどう自分を守って生きて来たのか…が現在のその人を作っています。親との関係や過去のトラウマなどで激しく傷つけられ痛めつけられ、深い哀しみと憤りを溜めている場合、その人の中に激しい怒り人格が存在します。他者から攻撃されたり、不当な扱いを受けたりすると、怒りや不信感が生じます。 怨念に近い大きな怒りを溜めていて、それが正当に表現できずに発酵したようになってしまっています。

怒り人格は、その人を傷めつけ、失敗しそうになると側ではやし立て、実際に失敗すると「ほらね」とばかりにせせら笑い。「お前なんか無価値だ、どうせ何をやってもうまくいかない、不幸になる」と激しくダメ出しまでしてきます。どんどんその人を追い詰めます。過去の傷ついた自分をいつまでも大事に握っている、そうすると、永遠に日の当たる場所には行かせてもらえないかのような絶望感に襲われます。誰にもわかってもらえない、理解してもらったことがないという時、そうなります。大事に握っているために、変われないということが起こります。良くなりたい、良い方向に進みたいのに、誰にも理解されずに独りで頑張って乗り越えて来た自分の中の存在を忘れたくなくて、向こう側には行けない。私がわかってあげないと、誰がわかってくれるの?過去の自分が可哀相じゃないか…そんな簡単に幸せになってたまるか…良くなってしまったら、こんなに傷つけられたこと、苦しかったことをなかったことにされてしまうんじゃないか…というような感じなのかもしれません。 

怒りは正当に表現され、それが認められて初めて昇華できますが、そうでなければ、そんな怒りを持っている自分を責めるようになります。激しい怒りを秘めながらこんな風に生きている自分は、安穏と生きている人たちとは別人種だ、と次第に思うようになり、そのような人たちに 冷めた視線を向け、自分はそちら側には行けないと感じます 。世間はあまりにも何食わぬ顔で動いているので、いつまでも怒っていじけている自分を蛆虫のように思ってしまいます。あなた達には私の苦しみなんかどうせ理解できないでしょ?…

どうせわかってもらえない、私にしかわからない…という感じがさらに意固地にさせる。でも本当は幸せになりたい、でも傷ついた過去の私はどうなるの?!…というせめぎ合いの中に居ます。

 その人の中にいる傷を負った存在、この怒り人格とどう向き合い対処するのかが一番重要です。 

 人を恨む感情は苦しいものです。誰でも理不尽に大切なものを奪われたり、蔑ろにされると激しい怒りがわきます。そしてさらにそんな凄まじい怒りを持っている自分自身に戸惑い、嫌悪します。

あまりにも辛い体験、理不尽な体験、屈辱を味わって、その時の感情を封じ込めないといけなかったり、感じることがいけないことだと否定されたり軽んじられたりすると、その時出せなかった感情が発酵したかのようになってしまいます。怒りを正当に表現できずに封印してしまうと、封印された怒りは発酵したような状態になり、底にある激しい怒りはマグマのようになって長らくその人を苦しめるようになります。恨みや怒り、憎しみが募り、どう扱っていいかわからない程に持て余すようになります。

 こんな恨み殺す程の怒りを溜めている自分の方が異常なのではないか…こんな激しい怒りを溜めている自分は醜い… 自分が弱いからでは…?性格が曲がっているからじゃ…いつまでもこんな風に思っている自分の心が狭くておかしいからじゃ…と。と思うようになってしまいます。あまりにも苦しくて、想起するのもヒリヒリするのでついしまい込んでいるが、大事にしまい込んでいる限りはいつまでも自分だけのものとしてしまい、それ以上傷つかないために守り抜いてしまう。守り抜いていると手放せないので、そこに執着してしまいます。

“私だけがあなたの理解者”と傷ついた存在と共依存状態となってしまい、気づけば前に進めない状態になっています。

この怒り人格をきちんと受け入れて認めること、恥ずべき存在なのではなく、その怒りは正当なものであると心底理解することが必要です。この傷ついた過去の自分を封印してしまわずに、十分に表現し尽くすことが大事です。怒りを正当に表現できて、そんな自分を受け入れることができ、それを表現しても否定されないという体験を通して、怒りに執着することなく、初めて前を向いて自分のために歩いて行けます。

怒っている自分を恥じる必要はありません。幼少期は無力だからゆだねるしかできなかったが、その自分を罰する必要もないです。あなたの中にある激しい怒りも、それは確かにあったのだという生きた軌跡です。怒っていい、嘆いていい、許さなくてもいい、その怒りは正当なものであるから。異常な状況下での正常な反応です。

別に許さなくてもいいし、納得できるまで出て来ていいよ…そりゃそうだよね… そんな簡単に許せるわけがないよね…そんなことされたら、そりゃあ、許せないよね、腹立つよね、悔しいよね、哀しいよね…と何度も何度も共感してもらって、受け入れてもらって…傷ついた過去の自分は、何を求め、何が得られず、何に傷つき絶望していたのか。そのことを安全な環境と相手に、十分に表現し尽くす必要があります。そして自分に起こったことが正当に評価されること、自分は何をされてきて、その結果、どういうことが自分の中で起こっていたのか、それがいかに理不尽な体験であったか、自分に起こっていることの客観的理解を論理的にしていくことも必要です。

その人の中に、傷ついて血だらけになった存在がいつまでも佇んでいます。

閉じ込められた感情、過去の自分の傷の手当をして、これまで一人で耐えて持ち堪えて来たことを労い癒す必要があります。十分に休息を取って安心感を与えてあげないといけません。少しずつ記憶を整理してくことで自分を癒していけるようになります。人生には様々な岐路があり、これまでの生き方では無理が出て、どうにも前へ進めない時が出てきたりします。それが再生のチャンスです。

参考ページ
沖縄 心理カウンセリング~潜在意識紀行|心理カウンセリング波詩、加藤詩子様のHPを参考に作成しています。