なぜ多くの人と同じでないといけないのでしょうか?なぜ周囲と違うことが受け入れられないのでしょうか?皆が姿、形が違うのに、なぜ同じ枠や型に当てはめようとするのでしょう?その、枠や型からはみ出ると否定される。だから、その枠からはみ出さないようなる。すると型で形が固まってしまう。本当は皆それぞれ、違った良さを持っているはずなのに。
私は私を赦さない
届かない犬の鳴き声
私自身、生まれてきた意味や自分の本当の価値を探していました。そして、納得のいく形を求めていました。世の中には、「これをすれば幸せになれる」「この道が救いにつながる」といった、方法論や導きが溢れていました。約束された幸せや救いなど本当にあるのでしょうか。
私の中には発達障害や愛着トラウマという苦悩も一緒に同居していました。私は、そんな自分を許せませんでした。社会が求める自分にもなれない。発達障害がある不完全な自分が、どうしても許せなかった、ずっと許せなかった。私は、私の中のあなたが嫌いだった。
私の罪を裁く法律はなく、その罪を受け入れることができなかったのです。私には、このハンディキャップを受け入れるには長い時間が必要でした。
病気や障害について、話せる人がいない、誰にも言えない、そんな孤独を抱えていました。皆と違っていいはずなのに、みんなと同じものを求められました。
社会の中で、ある役割がいつの間にか付与され、「役回り」が当たり前になり、周りの期待に応えようとその役を演じていく中で、その役割と本当の自分との間に乖離が生まれ、それも、生きづらさにつながりました。
社会の一般常識や、家庭や会社などの様々な枠があります。例えば、周りはみんな猫で、私は犬。当たり前のことですが、猫の集団の中で犬が「ワン」と鳴けば怒られてしまう。だから「ニャー」と鳴こうと必死に努力するも、うまく鳴くことができない。自分という声が、いつの間にか、風に消され、誰にも届かない、音のない叫びとなりました。少しずつ心が色褪せていき、まるで自分の「色」が失われていくようでした。「無色透明」な私が、そこにいるような気がしました。
なぜ、みんなはこんなにも簡単に「ニャー」と鳴けるのだろう。どうして自分は、こんなにも不器用に「ワン」としか鳴けないのだろう。犬である自分を深く責めていました。
もしかしたら、私は、人間ですらなく、誰の目にも見えない、「無色透明」な人間なのかもしれません。
「僕は人間じゃないんです ほんとにごめんなさい」
「そっくりにできてるもんで よく間違われるのです」
「僕も人間でいいんですか? ねぇ誰か答えてよ」
「見よう見まねで生きている 僕を許してくれますか」
「RADWIMPS 『棒人間』」 CD「人間開花」より引用
心の境界線(あなたと私)
否定される、責められる、攻撃されるといった恐怖の鎖が私の心を支配していました。人の悪意は恐怖の対象となります。他者の期待に応えないといけない。実力以上の自分をずっと見せなければいけないと自分に鞭を打つこともありました。自分に鞭を打つうちに、私の心は次第に擦り切れていきました。逃げてからどうするの?どこに行っても一緒なんじゃないの?そんな心の声に縛られ、逃げることが、できませんでした。
誰かに好かれようと自分を犠牲にしていると、いつの間にかその人が「絶対的な存在」になってしまいます。自分の価値をその人の評価にゆだね、感情を支配されてしまう。しかし、「その人は私が傷付いた時に傍にいてくれるだろうか?」という問いがありました。
そんな時、インターネットで「ゲシュタルトの祈り」という言葉に出会いました。
この言葉は、他者の期待に応えようと自分を犠牲にするのではなく、「自分は自分、あなたはあなた」という境界線を大切にすることを教えてくれました。
「わたしはわたしの人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。 わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。 私は私。あなたはあなた。 もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。 しかし出会えないのであれば、それも仕方のないことだ」
「ゲシュタルトの祈り」フリッツ・パールズより
ゲシュタルトの祈りに出会い、他者に無理に合わせるのではなく、そうした違いを受け入れ、「理解できなくてもいい」と少しずつ思えるようになりました。現実には分かり合えない人はいます。もしかしたら、生まれた星が違ったのかもしれません。人はそれぞれ生きる目的が違うのだから、価値基準が違えば、良い悪いで判断できるものではありません。
他者がどんな態度を取ろうと、私の価値は変わらないはずだと気づきました。人の気持ちや感情はその人ではないとわからない。私は他人の感情に責任を負う必要はないと理解しました。人によく思われるかどうかは結果であって、それを目的に生きていると生きづらくなります。
ありのままの青
白になりたかった青
生きづらさから抜け出すためには、「完全ではない、不完全な人間である自分」を許すことが必要でした。完全ではない側面があるのが問題ではなく、その側面に固執することで生きることが苦しくなりました。誰もが不完全であり、完璧な人間など存在しないし、人間は不完全であり、どんな人の心の内側にも闇があります。「人間は素晴らしい存在であり、どんな人にも良心がある」教えられていた私にはそれを受け入れるまでに少し時間がかかりました。
病気や障害を受け入れられない、このままではいけないと自己を責めてしまうこともあるかもしれません。無理に受け入れる必要はないです。ただ、その気持ちも含めて自分の中にもグラデーションという色があることを知ってほしいのです。発達障害という特性は、私自身すべてではありませんでした。それでも、それは確かに私の一部でした。
完璧で誰からも否定されない、自由な存在になりたかった。私はずっと、白に近づきたかった。
私は、「白」に近づくことを辞めることが本当は怖かった。それでも、自分自身に問いかけて、ありのままの「青」である自分を愛すと決めました。その決意を、LUNKHEADの音楽が何度も後押ししてくれました。
「僕たちは皆、本当は最初から全部を持っている」
「それは見失い、忘れてしまう それでも無くしたりはしないんだ」
「ただ、本当に、ただ本当に大事なものだけは抱えたまま」
「またゆるぎない、この揺るぎない、心のままいきていけるように」
「LUNKHEAD 『果てしなく白に近づきたかった青』CD 「青に染まる白」発売より引用
彼らの奏でる心の歌が、青い音となって私に教えてくれました。花は、自分の色を疑わない。だから、花は咲いている。今は咲けなくてもいい。それでも、そのつぼみを、どうかあなただけは、見守ってほしい。
以前の私は「青」という名の劣等感を受け入れられなかった。不完全な自分を許せなかった。自分とは違う誰かになろうとしていました。
私は、私を好きでいたい。優れているから価値があるわけじゃない。
今はそう言えます。
あなたはあなただけ
あなたのまま こころのままに
つらいことや悲しいこと、うまくいかないとき、どうしようもなく立ち止まってしまうような時、現実を解決するのが難しくても、安心して相談できる人、親身になって話を聴いてくれる人、自由に過ごせる場所があるだけで、心は大きく変わると信じています。
孤独な道のりではないことを忘れないでください。手を差し伸べ、つながり、他の人に頼っても大丈夫だと知ってください。知識、理解、そして自分を助ける方法があれば、困難に立ち向かえます。
明日は見えません。先の事もわかりません。不安や迷い、悲しみという雨が突然降り注ぐ。そんな日々、心と体は絶えず揺れ動き、それでも人生は続いていきます。あなたはあなた自身にしかなれない。多分、あなたは綺麗すぎる。他人のようにはなれない。だからこそ、今この瞬間のあなたが、あなたの気持ちを大切にしてほしいのです。悲しい時は悲しいって泣いて欲しい、嬉しい時は嬉しいって笑って欲しい。それも含めてあなただから。
優しくしたい人はいますか?
あなたは
今、何を感じてますか?
今、誰と一緒にいたいですか?
あなたの願いはなんですか?
あなたの
「色」は、何「色」ですか?
心のままに、感じているままに、ありのままのあなたでいられるように。
無理しないで。どうかあなたの心が少しでも休まりますように。

